「インドネシア独立戦争は大東亜戦争の縮図である」

(大東亜戦争はアジア解放戦争であった)
 【インドネシア独立記念日は日本の「皇紀」】
インドネシアの首都、ジャカルタに「スカルノ・ハッタ記念公園」(独立宣言広場)が有る。初代大統領スカルノと同副大統領ハッタの大きな銅像に挟まれる様にして、「独立記念碑」が有る。その記念碑に、独立記念日が「17・08・05」と刻まれている。同国の独立記念日は、西暦では、1945年8月17日であり、普通は、「17・08・45」と表記する処であろう。処が、そうではなく、「17・8・05」と刻まれている。それは一体何故であろうか?
また、その表記はどの様な意味を持っているのであろうか?
 「17・08・05」は、戦後日本で殆ど使われなくなってしまった「皇紀」である。皇紀2605年8月17日を意味した表記となっているのである。戦後は「皇紀」ということを学校では全く教えていない為に、「皇紀」の意味が理解出来ない日本人も多いと思われるが、「皇紀」は、我が国の初代天皇である神武天皇が橿原の地で即位された年を「皇紀元年」として、年を数えてきた「我が国独自の暦」である。我が国では、終戦の年まで使用していた暦であるが、戦後は殆ど使用されなくなってしまった。
 処が、何故、インドネシアの独立記念日は、我が国の「皇紀」で表記されているのであろうか?
 それは、「インドネシアは日本のお蔭で独立出来た」との思いを籠めて、同国の初代大統領スカルノと同副大統領ハッタが、その様な表記としたのである。
 その大きな理由は、下記の様な背景及び事情であった。
 オランダによるインドネシアの植民地支配は、1596年に、オランダが艦隊をインドネシアに派遣したことに始まる。
昭和17年(1942)3月1日、今村均中将率いる日本陸軍第16軍がジャワ島に上陸し、同月9日には、オランダ軍を制圧してしまった。
其の事はインドネシアの人々にとって非常に大きな衝撃だった様である。それまで、インドネシアは、約350年間オランダの植民地として統治されていた。その間、幾度か、オランダからの独立を目指してインドネシア人が戦った事があった様であるが、オランダ軍に全く歯が立たなかったという経過があったからである。
 日本軍はその後、約3年半に亘る軍政統治を続けた。その間、日本軍は、延べ3万8千人とも言われるインドネシアの青年達に、基礎学力を身に付けさせる為の教育や軍事訓練を含めた様々な教育を続けた。ジャワに、「プートラ」(民族結集組織)や「ホウコーカイ」(奉公会)という組織の本部を作ると共に全国に支部を作り、組織運営の方法を教えただけではなく、農業指導も行った。併せて、インドネシアの青年達に対して、「我々日本軍は、アジアを解放する為に戦っている。しかし、真の独立は(君達が)自らの血と汗を流して勝ち取らなくてはならない。」と訴えた。また、オランダ人を一掃し、インドネシア人に高い地位を与え、能力と責任感を身に付けさせた。
 昭和20年(1945)8月15日、我が国は、誠に残念ながら敗戦を喫した。その後、本国から、各前線の部隊に対して、「武装解除命令」並びに「帰還命令」が出た。
 しかし、インドネシアの場合は、その帰還命令に従わず、約1,000人の元日本兵が残留し、その後、約4年半続いた同国の独立戦争を戦ったのである。
 昭和24年(1949)12月27日、同国が漸く独立を勝ち得た時までに、元日本兵は約700人が戦死したと言われている。
 インドネシア独立までには、以上の様な経過が有った。昭和20年(1941)8月17日、我が国の敗戦の2日後に、スカルノとハッタが独立宣言を発する時点で、既に、「インドネシアの独立は日本のお蔭である」という強い思いが有ったからこそ、冒頭にも記したとおり、同国の独立記念日は、我が国の「皇紀」で表記されているのである。
 世界の歴史上、自国の独立の為に多大な犠牲を払って戦った例は数限りなくある。しかし、他国の独立の為に、この様に多くの戦死者を出して戦った例はまず無いであろう。(但し、ベトナムの場合は、インドネシア同様、戦後約800人の元日本兵が残留して、ベトナムの独立の為に戦ったと言われている。また、約8,000人のインドの青年達と共に日本軍が多大な犠牲を払ってイギリス軍相手に「インパール大作戦」を戦った事が、インドの独立に大きく繋がった事並びに「ビルマ独立の志士」と言われた30人のビルマ人青年達を、日本軍が海南島で訓練、指導した事がビルマの独立に大きく繋がって行った事なども、インドネシア独立戦争に通ずる処が大であると言える。)
 何故、インドネシアに多くの元日本兵が望郷の念を断ち切り、残留して同国の独立戦争を戦ったのか?それは取りも直さず、大東亜戦争が、我が国の自存自衛の為の戦争で有ったと言う事と共に、長期間欧米の植民地となっていた東南アジアを解放すると共に、理想的なアジアを構築する『大東亜共栄圏構想』という大義に基いた『東南アジア解放戦争』でもあったからに他ならない。

【筆者インドネシア訪問】

 その様な事実を筆者が知ったのは、平成14年のことであった。
 筆者は、(その時点において)「もしかしたら、インドネシアの独立戦争を戦った元日本兵の方々が未だ少なからず生きておられるかも知れない…」「是非、それらの元日本兵の方々にお会いしたい。そして、『我が国の敗戦後、何故、日本に帰られずに、インドネシアに残留し、同国の独立戦争に身を投ぜられたのか?』を、また、当時の背景や独立戦争の実態、経過等を何としてでも直接お聞きしたい。」という気持ちを抑え切れずに、翌平成15年3月11日、知人であるシンガポールの槙田邦彦大使(当時)を大使公邸にお尋ねし、同地に一泊した後、翌12日~16日まで、インドネシアに滞在して、インドネシア独立戦争を戦われた元日本兵である「宮原永治氏」(83歳、当時、台湾出身)と、藤山秀雄氏(82歳、同、佐賀県出身)のお二人にお会いすることが出来た。(もちろん、そう簡単にお会い出来た訳ではなく、訪イする前に、様々な努力を重ねて、漸く宮原永治氏と連絡が取れた後、訪イすることになったものである。)
 特に、宮原さんには、3日間に亘りお話をお伺いすると共に、日本人として訪問すべき各所を御案内頂いた。

【元日本兵、宮原永治さんのお話】
 宮原さんからお伺いしたお話の要点は、冒頭に記した内容と重複する点も有るが、下記の様な内容であった。
「…日本が敗戦した後、オランダ軍(とイギリス軍)がインドネシアを再占領する様に入ってきたんです。しかし、それまで日本軍に教育されていたインドネシアの青年達は、『二度とオランダの植民地になってたまるか!』との思いで、独立義勇軍『ペタ』を組織して、(当初はイギリス軍と、その後は)オランダ軍相手に戦い出したんです。しかし、実戦の経験の無いインドネシアの青年達は次から次へと斃れて行く…『それを見て見ぬ振りをして日本へ帰る訳にはいかない…』と思った元日本兵が、(誰に強制された訳でもなく)それぞれ個々人の判断でインドネシアに残留して、インドネシアの青年達と共に戦い出したんです。10~20名のゲリラ部隊がオランダ軍を相手に戦うという構図でした。…日本兵の多くはそれらのゲリラ部隊のリーダーとなって、最前線に出て勇敢に戦いました。…そして、1949年、インドネシアの独立が成るまでに、約700人の元日本兵が戦死したんです。…戦い出した当初、日本軍は、日本軍の武器を『落とした…』とか『盗まれた…』という口実をつけて、『ペタ』やインドネシアの青年達に提供したんです。…中には、日本軍がインドネシアの青年達にいきなり襲われて、武器を奪われるケースも有ったんです。…大東亜戦争当時、各戦地で戦っていた日本兵の多くは、 (第一義的には、我が国を護る為、と言う思いと併せて)『大東亜共栄圏構想』に基き、『アジアを解放する』と言う大義の下に戦っていたんです。インドネシアに派遣されていた我々は、『何としてでもインドネシアを解放する』という大義の下に戦っていたんですよ。…『大東亜共栄圏構想』は非常に素晴らしい考え方であると思っていました。…戦後、B級、C級戦犯として処刑された数は、インドネシアの元日本兵が最も多かったんです。…(戦後、処刑された元日本兵は、我が国全体では、1,069名とも言われる)
 当時の日本軍は、非常に軍規・軍律が厳しく、戦後言われている様な不法事件など殆どありませんでした。…慰安婦の件などは我が国が非難を受ける必要など全くありません。…日本軍は、それまで公用語として使用されていたオランダ語と英語の使用を禁止すると共に、多くの言語に分かれていたインドネシアに共通語を定めて、インドネシアの青年達の意思統一を図る様にしたんです。…インドネシア独立戦争をインドネシアの青年達がオランダ軍相手に戦い続ける事が出来た背景としては、日露戦争において、小さな国日本が大国ロシアを撃ち破った事と、大東亜戦争緒戦において、日本軍が短期間でオランダ軍を撃ち破った事が、多くのインドネシアの青年達に大きな勇気を与えていた事が挙げられます。
 インドネシアの独立が成った後、元日本兵に対して懸賞金が出たこともあって、堂々と日本名を名乗ることさえ出来なかったんです。…生き残った元日本兵は現地の名前に変え、現地の女性と結婚し、それぞれ独自に、生きる為に、戦後の自分の人生を徒手空拳で必死に模索せざるを得なかったんです…華僑はインドネシア経済の約70%を牛耳っているんです。その様な状況は東南アジアの多くの国々も同様です。…華僑は金儲けの為なら役人に対する賄賂を含めて、悪い事をする事を何とも思っていないのです。…我が国が大東亜戦争の緒戦において勝利を続け、東南アジア各国を占領した時、華僑はそれまで保持していた権益を失う事に対する反発から、香港、マレーシア、シンガポール等で反日・侮日運動を起こし、反日部隊を組織するなどして、日本軍に対する抵抗や妨害を繰り返したんです。その為に、やむを得ず、華僑粛清事件も起きたんですよ。…日本は、ドイツの様に、組織的、計画的に、特定の民族、国民を不当に虐殺した事は全く有りません。…一方、米国は、広島、長崎への原爆投下並びに東京大空襲を始め、全国の主要都市に無差別爆撃を繰り返し、沖縄戦を含めて何と数10万人の我が国民間人を虐殺したんです。また、(旧)ソ連は、終戦間際、日ソ中立条約を一方的に破って、満州や南樺太及び千島列島を不法に侵略し、多くの我が国民間人を殺戮し、婦女暴行や掠奪を重ね、その後、約56万人もの元日本兵をシベリアに強制連行し、まともに食べる物も与えずに、酷寒の地で強制労働させて約6万人の元日本兵を死に追いやった事などは、何れも甚だしい国際法違反ですよ。にも拘わらず、その様な事が厳しく追及、糾弾されることも全くなく、根拠もはっきりしない事で我が国が不当に非難を受け続け、慰安婦の様に、謝る必要も無いのに、謝り続け、お金など支払う必要がないのに、お金を支払い続けている事は実に馬鹿げているとしか言いようがありません。…それらは全て日本の政治家の多くがあまりにも不勉強且つ無知な為に、中国、韓国、米国並びにロシアから都合の良い様にあしらい続けられているだけです。
 今の日本の一番大きな問題は、その様に卑屈で主体性の無い外交姿勢と自虐教育に有ります。
自国・祖国に自信と誇りを持てる教育をしなくては日本の明日はありません。自分の国に愛国心を持つことは極く当然のことです。日本は愛国心を持てる教育をしなくては駄目です。
 日本は、教育を根本的に改革し直して、日本人の精神を取り戻さなくてはいけません。日本は戦前の教育の方が余程しっかりしていました。日本が戦争に負けたからといって、戦前の日本がやっていた事は全て悪かったかの様に言うのは大きな間違いです。
 日韓併合に付いても、戦後、日本が韓国から不当な抗議を受け続けていますが、日韓併合は、1909年に、朝鮮人の安重根が日本の初代首相であった伊藤博文をいきなり暗殺してしまった為に、大きな負い目を抱いた大韓帝国の方から我が国に対して、併合の申し入れがあり、当時の我が国が(当時の)世界の主要国に確認した処、ただの一国もその事(韓国併合)に反対した国も無く、合法的に日韓併合はなされたのであって、日本がその事で非難を受ける必要は全くありません。我が国が、日清・日露戦争を戦ったのも、その一番の大きな理由は朝鮮半島の自立、独立、安定を図る為だったのであり、もしも、日本が両戦役を戦っていなかったならば、恐らく、朝鮮半島は清国かロシアの領土となっていた可能性が極めて高く、我が国の命運もどうなっていたか分かりません。
 台湾にとって50年間の日本統治は非常に大きな意義が有りました。
 中国人は、伝統的に、強い相手には弱く、弱く出る相手には高圧的に出る民族なんです。
 日本政府が卑屈な外交を続けているから、日本が甘く見られて、多くの日本人が北朝鮮に拉致されてしまう様な全くとんでもない事が起きるんです。今の日本の外交は全く外交になっていません。中国、韓国、北朝鮮の言いなりで、実に情けない限りです。
 インドネシア初代大統領のスカルノは、オランダ時代から反オランダ活動を続け、何度も監獄に入れられていたんです。それを昭和18年3月に、メンクリンという監獄から日本軍が救い出したんです。
 白人は、第二次世界大戦までは、侵略という概念が無かったんです。だから、大東亜戦争迄は、欧米各国が、それぞれ競う様にして植民地を広げていたんです。欧米はその様な事を全く棚に上げて、戦後、日本だけを一方的に悪者に仕立て上げたんです。日本だけに、侵略と言う罪を一方的に押し付けたんですよ。
 オランダ、ポルトガル、スペイン、イギリス、フランス、ロシアは言うに及ばず、米国だって、独立当初は僅か13州からスタートしたにも拘わらず、その後、先住民であったインディアンやメキシコ人の土地に侵略を続け、彼らの多くを虐殺し、ハワイまで併合して、現在50州となっているんです。大東亜戦争の時までは、フィリッピンも植民地にしていたんですよ。…」
 宮原さんのお話は以上の様な内容であった。宮原さんのお話は、それまで小生が抱いていた考え方、歴史観と殆ど同様であった。
 しかし、我が国における戦後教育並びに多くのマスコミの報道は宮原さんのお話とは真逆の内容が余りにも多過ぎる。何としてでも、我が国の教育並びにマスコミ報道を正常化しなくてはならない。 戦後6年8カ月に亘る、GHQ(米国を中心とする連合国軍総司令部)の日本統治(その実態は様々な「日本(人)弱体化政策」)並びに、その後、長期間続いている、「日教組主導の自虐偏向教育」及び、「多くの我が国マスコミの自虐反日報道」等によって、多くの日本人は、「我が国は侵略戦争をした悪い国であった…」かの様に思いこまされてしまっている。しかし、その様な見方は大きな間違いである。「多面的、長期的、総合的」に観れば、「大東亜戦争はアジア解放戦争」であり、結果的には世界の植民地解放に繋がる戦争でもあった。そしてその縮図が「インドネシア独立戦争」だったのである。





【ヤヤサン福祉友の会】
 インドネシアの独立が成った後、生き残った元日本兵の人達は、生きる為に、生活の糧を得る為に、徒手空拳で、非常に困難な生活を余儀なくされた様である。その様な中で、お互いの互助組織として、「ヤヤサン福祉友の会」が組織された。(設立時の会員数約180名)

【国立カリバタ英雄墓地】
 インドネシア独立戦争を戦った元日本兵の多くが、インドネシア政府より、「ゲリラ勲章」や、同国で最高位の勲章である「ナラリア勲章」を授与され、元日本兵が亡くなると、棺はインドネシアの国旗で覆われ、儀仗隊に担がれ、礼砲が撃たれて丁重に埋葬されているとのことである。国立カリバタ英雄墓地には27人、その他全国の英雄墓地には116人が埋葬されているという。

【ジョヨヨボ王の伝説】
 インドネシアには、古くから、「今に北の方から黄色い人達がやって来て我々を解放してくれる。そしてその後しばらくするとその人達はまた北の方へ帰って行く…」という伝説が有ったという。(ジョヨヨボ王伝説)日本軍が正にその伝説の「黄色い人達」となったのである。

 【「村山談話」】
平成7年8月15日に発表された(所謂)「村山談話」は、「…我が国は侵略戦争と植民地支配をした悪い国であった…」という内容となっている。もしも、「村山談話」の様な(歪んだ)「歴史観」が仮に正しいものであるならば、インドネシアの独立記念日の様な表記は絶対に有り得ないはずである。「村山談話」は非常に大きく歪んだ歴史観である。
 実は、小生は、その「村山談話」並びに同談話と(所謂)「河野談話」を背景として設立された(所謂)「アジア女性基金」(村山富市元首相が、同理事長)の正当性を問うて、村山富市元首相を相手どり、平成19年3月29日、東京地裁に提訴して、最高裁まで争った。村山富市元首相は何と6人もの弁護士を立ててきたが、「村山談話」並びに「河野談話」及び「アジア女性基金」の正当性は全く説明出来なかったのである。(ちなみに、小生は、全く弁護士を使わず、「本人訴訟」という形で争った。) また、それとは別に、「河野談話」の正当性を問うて、河野洋平元官房長官を、同年、東京地裁に提訴すると共に、東京地検に告発したのであるが、その前段階である、河野洋平衆議院議長(当時)に対する小生からの「内容証明郵便」に対して、河野洋平は全く何の反論も出来なかったばかりか、村山富市元首相同様、「河野談話」の正当性も全く説明出来なかったのである。
 発表した本人がその正当性を全く説明出来ない、その様に好い加減なものを現内閣に至るまで「踏襲」し続けてきていることは実に馬鹿げたことと言わざるを得ない。

 【大東亜戦争の背景と主な経過】
「大東亜戦争」開戦当初、世界の独立国家は約60カ国であった。しかし、今は、国連加盟国だけでも193カ国となっている。我が国が多大な犠牲を払って「大東亜戦争」(並びに、その前の「日露戦争」) を戦った結果、長期間(約450年間)続いた欧米による「植民地支配」に終止符が打たれたのである。もしも我が国が「大東亜戦争」を戦っていなかったならば、恐らく、今でも「欧米による植民地支配」は続いていたはずである。
 戦後教育の中で、我が国が何故大東亜戦争を開戦せざるを得なかったのか?について全く教えられていない。ここで、その事(大東亜戦争の背景)に付いて、簡単に触れてみたい。
 ①明治39年(1906)、米国は我が国を仮想敵国とした「オレンジプラン」を策定し、それをその後幾度も見直しを重ねていた。
 ②大正13年(1924)、米国は、日系米人の土地を取り上げると共に、「日系米人は子々孫々に至るまで土地の所有の権利を認めない」という「排日移民法」を作り、日系米人に対して徹底的に迫害を始めた。
 ③昭和14年(1939)7月26日、米国は、日本に対して、「日米通商航海条約」の一方的破棄を通告した。
 ④昭和14年、9月1日、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦(ヨーロッパ戦線)が始まった。
 ⑤昭和15年(1940)、ドイツはヨーロッパの殆どを制圧し、イギリスにも猛爆を加える状況の中で、イギリスのチャーチル首相は、米国のフランクリン・ルーズベルト大統領に対して、何度も援軍要請をした。
 ⑥ルーズベルトは、元の宗主国であるイギリスを助けたいという思いと、1929年以来続いていた「世界大恐慌」から抜け出す為に、ヨーロッパに参戦の機会を窺っていた。
 ⑦しかし、1940年、ルーズベルトは3回目の大統領選において、「絶対に戦争には参加しない。」という事を最大公約に掲げて再選を果たしていた為に、米国はなかなかヨーロッパに軍隊を送る事が出来なかった。
 ⑧昭和15年9月26日、米国は、日本に対して、「屑鉄」の禁輸に踏み切った。
 ⑨昭和16年(1941)7月25日、米国は、日本の在米資産を一方的に凍結してしまった。
そして、イギリスとオランダも、其の事に追随した。
 ⑩同年8月1日、米国は、日本に対して、石油の完全禁輸に踏み切った。其の事にも、イギリス、オランダは追随した。当時、我が国は、米国から80%近い石油を輸入していた。そして、残りは、イギリスとオランダから輸入していた。つまり、我が国に石油が全く入ってこない状況となったのである。
 ⑪上記⑤、⑥、⑦の様なジレンマの中で、ルーズベルトとチャーチルは、昭和16年(1941)8月9日~12日、英国の旗艦「プリンス・オブ・ウェールズ」上で「大西洋洋上会談」を行った。
 ⑫その会談で、ルーズベルトとチャーチルは、「ドイツと同盟を結んでいる日本を政治的、経済的に更に追い詰めて(ABCDラインによる経済封鎖)、日本が止むを得ず、資源を求めて(欧米の植民地となっている)東南アジアに進出したならば、日本に反撃すると同時に、『日本と同盟を結んでいるドイツも許さない。』という口実をつけて、ヨーロッパにも軍隊(米軍)を送ろう。」というシナリオを描いた。誠に残念ながら、その後の歴史経過は、そのシナリオどおりになってしまった。(ロバート・スティネット著「真珠湾の真実・ルーズベルト欺瞞の日々」)
 ⑬その様な状況の中で、米国の陸海軍は、同年7月18日、ルーズベルト大統領に対して「JB355計画」なるものを提出した。そして、ルーズベルトは、同7月23日、同計画にOKのサインをしていた。その計画は、「中国に、米国の戦闘機350機と長距離爆撃機150機、併せて500機を送り込み、中国から東京を含む日本の主要都市を無差別空撃する」というものであった。処が、その後、ヨーロッパ戦線が風雲急を告げる状況となってきた為に、一旦その攻撃は中止となった。
 ⑭しかし、その後、米国は改めて、中国に「フライングタイガー」と名付けた100機規模の空軍を送り込み、同年の10月20日、昆明付近で、日本軍に対する攻撃を開始した。(真珠湾攻撃の約1ヶ月半前のことである)(中国、北京郊外の「航空博物館」にその事に関する展示有り)
 ⑮その後、同年11月26日、米国は、日本に対して、実質上の宣戦布告書であった「ハル・ノート」を突き付けた。
 ⑯そこで、我が国は自存自衛の為に、やむなく開戦の決断をしたのである。

 【開戦時における日米の戦力差】
 戦後、日本人の多くは、「我が国が『無謀な戦争』を始めて、負けるべくして負けた…」という様に思い込まされている。しかし、その様な見方は決して正しくはない。ちなみに、開戦時における我が国海軍総戦力と、当初、主に戦った米国太平洋艦隊との戦力差はどの様なものであったのだろうか?
 実は、開戦当初の我が国海軍総戦力は米国太平洋艦隊のそれを上回っていたのである。ちなみに、空母の数は、我が国が10に対して、米国は5(3という資料も有る)、駆逐艦の数は、我が国が112に対して、米国は84、潜水艦の数は、我が国が65に対して、米国は30と、我が国の方が米国よりも大きく上回っていたのである。しかも、開戦後、しばらくして、我が国は、当時世界最大級の戦艦「大和」と「武蔵」も建造していたのである。
 もう既に大鑑巨砲主義の時代ではなくなっていたという人もいるが、飛行機の数も、我が国が4,800機に対して、米国が5,500機とほぼ互角であった。
 決して、我が国が米国よりも戦力的に大きく劣っていたから負けたということではないのである。もちろん、資源力の差及び工業生産力の差は大きなものがあったということはあるが、必ずしも、我が国が一方的に負けると決まっていた戦いとは言えなかったのである。
実際に、開戦後約半年間、昭和17年(1942)6月5日のミッドウェー海戦の敗戦迄は、我が国は、米国、イギリス、オランダ、オーストラリア、中国等を相手に戦い、殆ど連戦連勝を続けていたのである。
 それでは一体我が国は何故負けたのか?戦後、68年経過しているにも拘わらず、大東亜戦争の敗因分析、検証、総括が国家として成されていないのである。其の事が非常に大きな問題であると言わざるを得ない。 
一方、日露戦争開戦時における我が国とロシアとの戦力差は約1対10であった。(大砲の数は、我が国が636門に対して、ロシアのそれは、約1万2,000門)日露戦争は大東亜戦争よりも遥かに無謀な戦争であった。しかし、日露戦争の勝因分析、検証、総括もまた国家としては全く成されていないのである。その様な状況はどちらも大きな間違いであると言わざるを得ない。

【マッカーサーの反省】
マッカーサーは、終戦後の我が国を占領統治したGHQの最高司令官である。GHQは我が国を占領統治した約6年8カ月の間、あらゆる手段を講じて、徹底的に我が国並びに日本人の弱体化を図った。具体的には、①国際法に大きく違反して強行した極東国際軍事裁判(所謂東京裁判)、②同じく国際法に違反して押し付けた現憲法、③マスコミの完全統制並びに我が国国民に一方的贖罪意識を植え付ける為の宣伝工作、④同様の教育、⑤連合国並びにGHQに対する批判は一切許さないと言う事を含めてのGHQの30項目の命令、⑥20万人の公職追放、⑦日本人の脳裏から真実の歴史を消し去る為に実施された、7,769種類にも及ぶ書籍の「焚書坑儒」、⑧教育勅語の廃止…等々を含めて、我が国の国民に対して一方的な贖罪意識を植え付けた。その弊害は余りにも大きいものが有る。
しかし、昭和25年(1950)10月15日、マッカーサーは、ウェーキ島で、トルーマン大統領(当時)に対して、「東京裁判は誤りだった。」と言っている。また、昭和26年5月3日、同じく、マッカーサーは、米国の上院・軍事外交合同委員会において、「…従って、彼ら(日本)が戦争に突入して行ったのは、その多くは(日本の)自衛の為であった。」
(…Their purpose, therefore ,in going to war was largely dictated by security )と証言している。
【ペリーの国旗】
昭和20年(1945)9月2日、ミズリー艦号上において、重光葵外務大臣(当時)が降伏文書にサインした。そのミズリー艦号上に、1853年と翌年、ペリーが我が国にやって来た時に、旗艦「サスケハナ」に掲げてあった古ぼけた星条旗が掲げられていた。一体それは、何を意味していたのであろうか?それは、ペリーが我が国にやって来た時、既に、「いつかはこの国(日本)を征服したい。」と思っていた。「ペリー提督。貴方の思いが漸く実現したよ。」ということではなかったのだろうかという見方が有る。(加瀬英明、ヘンリー・ストークス共著「なぜアメリカは対日戦争を仕掛けたのか」)

【世界の評価】
(前述のとおり)大東亜戦争開戦時における世界の独立国家は約60カ国であった。しかし、今は国連加盟国だけで193カ国となっている。我が国が多大な犠牲を払って大東亜戦争並びにその前の日露戦争を戦った結果として、長期間続いた欧米の植民地主義に終止符が打たれたのである。その様な評価をしている世界の識者は実に多い。(紙面の都合で、それらを紹介出来ないのが非常に残念である)
昭和30年(1955)インドネシアのバンドンで第1回バンドン会議が開催された。その会議に、アジア、アフリカから29カ国の首脳が参加した。それらの各国の首脳から、我が国の代表が、「我々の国が独立出来たのは日本のお蔭だ。日本はこれからもアジアのリーダーとして頑張って欲しい。」と口々に言われて握手攻めにあったということである。
世界の歴史に類の無い大規模且つ継続的な「特攻攻撃」を含めて、大東亜戦争だけで、約240万人の戦死者がおられる。何としてでも、それらの先人の方々の尊い「死」を決して無にしない国家にしなくてはいけない。

【チャンドラ・ボースの言葉】
インド独立の英雄と称えられているチャンドラ・ボースは、昭和18年(1943)に来日して、日比谷公会堂で、当時のアジアの人々の気持ちを代弁し、この様に講演したという。「…日本はアジアの希望の光です。…この度、日本はインドの仇敵のイギリスに宣戦しました。日本はインド人に千載一遇の機会を下さいました。我々は自覚し、心から日本に感謝しています。ひと度この機会を逃せば、今後百年以上に亘りこの様な機会は訪れることはないでしょう。勝利は我々のものであり、インドが独立を果たすと確信しています。…」と。(ヘンリー・ストークス著「日本はアジアの希望の光だ」より)
このチャンドラ・ボースの言葉が、当時欧米の植民地となっていた多くのアジア諸民族の素直な気持ちだったのである。それに対して、「村山談話」が正当な歴史観を如何に大きく歪めたものであるかを我々日本人は正しく認識しなくてはならない。
【インドネシア独立戦争は大東亜戦争の縮図】
『インドネシア独立戦争は正に大東亜戦争の縮図』と言うべきである。
我々日本人並びに我が国政府は早く真実の歴史を取り戻し、「村山談話」と決別し、日本人としての自信と誇りを早く取り戻さねばならない。何としてでも……

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by morohashi0520 | 2016-03-31 10:24